第三話:松濤館流とは【会長 草原克豪】
船越先生が体系化した空手道は松濤館流と言われています。先生がそのように名付けたわけではありません。先生の後から本土で指導を始めた他の空手家たちが糸東流、剛柔流、和道流などの流派を名乗りはじめたことから、それと区別するために、先生が開いた松濤館道場の名をとって松濤館流と呼ばれるようになったのです。松濤とは船越先生の雅号でした。先生は若い頃から漢詩などに趣味があり、この雅号を用いていたのです。このことからも先生がいかに教養ある風流な文化人であったかということがわかります。
松濤館流においては、形の名称は他の流派のように中国風の発音を片仮名で表記しただけのものではなく、漢字を用いた和風の名称になっています。平安、抜塞、観空、鉄騎、半月、十手、燕飛、岩鶴、慈恩などです。これらは日本の武道にふさわしい名称にするために船越先生が自ら考え出されたものです。どれをとってもそれぞれの形のもつイメージが絵のように伝わってきて、とても味わい深い名称だと思います。
ここにも船越先生の豊かな教養が感じられます。先生は日頃から「空手道は君子の武道」とよく口にしていました。君子とは徳の高い立派な人格者のことですが、先生の口からそう言われると誰もが納得したに違いありません。
船越先生が伝えた空手には自由組手はなく、形の稽古だけでした。もともと琉球拳法には形の稽古しかなかったのです。しかし、日頃から柔道や剣道の試合を間近に見ていた大学生たちは、形の稽古だけでは満足しませんでした。自分がどれだけ強くなったのかを確かめたいという気持ちもあって、何とか組手の試合ができないかと工夫を重ねていたのです。防具の研究も進んでいましたが、当時はまだ安全性の問題があって、試合で使うには危険すぎました。
そうした中で日本空手協会では、後に初代首席師範となる中山正敏先生らが中心となって、相手に当てずに直前で止めるいわゆる「寸止め」ルールによる組手試合の方法を確立したのです。船越先生は組手試合には賛成しませんでしたが、先生が亡くなって半年後の1957(昭和32)年秋、組手試合も含めた初の全国空手道選手権大会が開催されました。
それから60余年を経た今日、空手と言えばすぐに組手を連想してしまうほど、形よりも組手試合の方に注目が集まっています。しかし、だからといって形を軽視してしまうのは大きな間違いです。なぜなら形こそが空手の根幹であり、最も大切な要素だからです。日本空手協会では今でもこの考え方を継承して、基本、形、組手を三位一体とする空手道の指導と普及に努めているのです。