第一話:船越義珍先生の決断【会長 草原克豪】
空手道は日本武道の一つですが、もとは中国拳法の影響を受けて沖縄で発達した武術です。それが今から100年近く前に本土に伝えられ、今日の空手道へと発展してきたのです。
沖縄は150年ほど前まで琉球王国と呼ばれていました。江戸時代になって間もない1609年に薩摩藩の侵攻を受け、その支配下に置かれますが、その一方で、中国を宗主国とする冊封関係も引き続き維持していました。そうした関係で、中国拳法をもとにした「手」と呼ばれる独特の琉球拳法が誕生し、士族階級の間で静かに広まっていたのです。
明治維新後に琉球王国が廃止され沖縄県が設置されると、県内では王国の再興を目指して清国に擦り寄る「頑固党」と明治政府に同調する「開化党」とが対立して、空手も一時は衰えました。しかし、日清戦争で日本が勝利したことから状況が一変します。空手には青少年の心身の鍛錬に効果があることが認められて、県内の学校体育にも取り入れられるようになったのです。
この琉球拳法を最初に本土に伝えたのは船越義珍先生でした。当時小学校教員としての生活を終えて沖縄尚武会会長を務めていた先生が、県からの要請を受けて、1922(大正11)年に東京で開催される文部省主催の運動体育展覧会で空手を紹介することになったのです。この頃はまだ「空手」ではなく、「唐手」と称していました。
船越先生は展覧会では図表を使って説明しただけでしたが、その数日後、柔道の創始者である嘉納治五郎先生に招かれて講道館で実演することになりました。するとその様子が新聞でも報道されて大きな反響を呼んだのです。嘉納先生からも「この武術を本土で普及しようというお考えがあるなら、そのための協力は惜しみません。必要なことがあれば、どんなことでも遠慮なく申し出てください」と温かい激励の言葉をかけられました。この言葉に船越先生が痛く感激したことは言うまでもありません。そのうちにあちこちから講演や実演を頼まれるようにもなりました。
こうして沖縄に帰る日を先延ばしにしているうちに、先生の胸の中にはある熱い思いが湧き上がってきます。それは「このまま本土で空手を普及させることが自分に託された使命ではないか」という思いでした。そしてついにそのまま東京に留まり、その後の人生のすべてを空手の指導と普及に捧げる決心をしたのです。家族を沖縄に残したままの決断でした。このたった一人の孤独な決断が、今日の日本武道としての空手道の発展をもたらすことになったのです。この時の船越先生の決断がなければ、今日のような空手道は存在しなかったでしょう。
そのことを思うと、私たちの人生は目に見えないところで多くの先人たちと繋がり、その縁に支えられて今日の自分があるということに、改めて気づかされます。そして自分自身も後進の範として恥じない生き方をしなければならないと、思わず背筋を伸ばしたくなるのです。