杉浦 初久二 第二代首席師範
空手の本質は技を極めることであり、技を極める鍛錬を通して白己制御能力を高めるのか空手道であります。 組手の試合は、日頃の鍛錬によって養われた強い意志力によって、相手の急所寸前に目標を設定し、間合に応じた適切な技により、最短時間に、最大限の衝撃力を集中することによって勝つことを競うものであります。 また形の試合は、「極」の表現を競うものであります。本来、形の挙動には、それぞれ相手を想定した意味があり、そのつかい方には定められた緩急、強弱、伸縮の変化がありますが、いかなる挙動も「極」の基木原理に適っていなくてはなりません。 「極」をつくるための「型」に、自分の「血」を通わせたものが、自分の「形」であります。 昭和32年に第1回全国人会が開催されてから、40年が経過したのでありますが、空手の試合化によって、子供から大人まで、男女を間わず、広範な人々によって、空手が行われるようになったことは、大変な発展であります。空手が正しく理解され、普及することによって、広く社会に貢献することは、わが協会の目的であり、使命であります。
経歴
1924年(大正13)10月 4日
愛知県生まれ
1942年(昭和17)4月
興亜専門学校(Koa Junior college。現、亜細亜大学Asia Univの前身)に入学。 課外活動で空手部に入部。松涛館より林義明先生が派遣された。
1943年(昭和18年)
松涛館に入門。船越義珍先生に師事し、義珍先生の次男、義豪(Yoshitaka)先生の指導を受けた。
1944年(昭和19年)3月
空手道初段
1944年(昭和19年)9月
興亜専門学校卒業(繰上げ)
1944年(昭和19年)10月
第15期海軍飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。
1945年(昭和20年)8月
復員
1946年(昭和21年)11月
日本経済専門学校(興亜専門学校が改称)に就職。 課外活動で空手部を復活。
1949年(昭和24年)から ’54年(昭和29年)までの間
特に、拓殖大学OBの中山正敏、慶応義塾大学OBの小幡功および伊藤俊太郎の各先輩方から親切に指導いただいた
1951年(昭和26年)6月
空手道弐段
1953年(昭和28年)11月
空手道参段
1955年(昭和30年)
日本空手協会(現、社団法人日本空手協会の前身)の理事となり、指導員を委嘱する。
1955年(昭和30年)12月
日本経済短期大学(日本経済専門学校が改称)を退職。
1956年(昭和31年)4月
日本空手協会指導部に入る。以降’71年(1946年)まで、本部道場の会員ならびに工学院大学、日本大学農獣医学部、大正大学、ICU、東京経済大学、一ツ橋大学、中央鉄道学院および亜細亜大学等の各団体会員空手道部の指導を歴任した。
1957年(昭和32年)11月
空手道四段
1958年(昭和33年)4月 10日
社団法人日本空手協会理事に就任。試合規約、審判規約の作製に従事。
1958年(昭和33年)5月 14日
文部省大学設置審議会第四特別委員会の判定の結果、体育実技(空手道)講師可、の通知を受けた。
1959年(昭和34年)から’63年(1938年)まで
細亜大学教養部非常勤講師として、体育実技で空手道を担当した。
1961年(昭和36年)3月
空手道五段
1961年(昭和36年)12月
社団法人日本空手協会指導委員会編、講習会教材「空手道の基本」編輯に従事、会員が陥入り易い欠点を指摘したのが、この教材の特徴である。
1963年(昭和38年)4月
空手道 六段
1963年(昭和38年)5月
社団法人日本空手協会指導部編、海外向け8ミリ、英語版、全6巻「空手ゼミナール」 第3巻平安三段および第4巻鉄騎初段の実技対応
1963年(昭和38年)7月 10日
社団法人日本空手協会の理事を辞任
1964年(昭和39年)4月
亜細亜大学教養部専任講師に就任。体育実技(空手道)を担当。
1967年(昭和42年)4月
亜細亜大学教養部助教授に昇格
1968年(昭和43年)4月
空手道七段
1969年(昭和44年)4月
社団法人日本空手協会編、鶴書房刊、空手道新教程形シリーズ、実技分解写真説明、日英両語版、全5巻の第3巻平安三段実技担当。
1970年(昭和45年)3月 26 から 4月 7日 まで
中日親着空手道大会に招かれ、台北、台中、台南、高雄、の各地巡回に参加。
1970年(昭和45年)8月
講談社科学図書部(Kodansha INternational LTD)より海外向けに出した空手道形ビデオカセット、全5巻、英語版、第2巻、平安三段実技担当。
1973年(昭和48年) から’78年(1953年)まで
小金井市体育協会役員、小金井市空手道連盟会長をつとめた。
1975年(昭和50年)4月
日本武道学会会員
1975年(昭和50年)8月 20日 から 27日 まで
IAKF(国際アマチュア空手連盟)設立総会と第7回大会のため、LosAngelesおよびHawaii出張に参加。
1975年(昭和50年)12月
福昌堂刊、月刊空手道の依頼により、“杉浦初久二の空手教室”として、選定形「抜塞」「観空」の解説を連載執筆した。
1976年(昭和51年)4月
亜細亜大学教養部教授に昇格。
1976年(昭和51年)6月 21日
空手道八段。技術審議員を委嘱された。
1976年(昭和51年)7月 17日 から 26日 まで
亜細亜大学学友会の洋上大学に同行し、その途中、インドネシア空手協会(INKAI)のJakarta、Surabaya、Yogyakarta、各支部を歴訪した。
1976年(昭和51年)9月15日 から10月 5日 まで
亜細亜大学教養部から海外出張、“アメリカの大学における体育実技空手道の授業視察”のため次の各地各大学を訪問。UCR;PIERCE College;UCLA;Arisona State Univ;Scottsdale Community College;J・KA of Colorado;Temple Univ.College of PE;NewYork State Univ;
1977年(昭和52年)5月
亜細亜大学教養部紀要第15号に「空手道の体系について(A system of Karate-do)」を発表。空手の本質を中心に独自の見解を示した。
1983年(昭和58年)4月
体育実技空手道教材(teaching stuff for karate-do as Physical Education)[南窓社]を作製。先の論文に補遺・補註を加えた。
1989年(平成元)3月
空手道概要を作製。先の教材に拾遺型提要を加えた。
1990年(平成2年)3月
亜細亜大学教養部を停年退職。’93年 (1905年 )3月 まで客員教授をつとめた。
1991年(平成3年)
社団法人日本空手協会首席師範就任
1992年(平成4年)4月
空手道九段